自分が見たこと、感じたことを書いてみようと思います。
*時系列で全ての詳細は、博物館に記載があります、歴史の年号や出来事は、様々な認識の違いがあると思いますが、移住資料館の資料をもとにざっくりと記述しました。
ボリビアの全9県。
日本人が最初にボリビアに移住したのは1899年。
契約労働者としてペルーへ渡ってきた第1回ペルー移民790人名のうち93名がアンデス越えをし、ボリビアのマピリ川流域にある熱帯密林地帯(ラパス県)のゴム園に就労したのがボリビア移住の始めと言われています。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界では自動車が一気に普及します。
そうした中で、需要が急増したのがタイヤの原料となる「ゴム」でした。
仕事は朝の4時ごろから始まり、密林に入ると会話をする相手もいない孤独なものであったそうで、こみ上げる感情を日記や手紙に記すことで寂しさを紛らわしたそうです。
移住地での生活道具。
ペルーのゴム景気が衰退し出しすと、ゴム景気が続いていると噂されているゴムの集散地として急速に発達していたボリビアのリベラルタ地区に入り、ここで農業をはじめとするさまざまな職についたそうです。ユカ芋や米、タバコ、ジャガイモなどを栽培し利益をあげていました。1915年にはボリビア初の日本人会が作られており、今日ではボリビアで最も多くの日系人が暮らしている町です。
1910年後半以降ゴム景気衰退後は、コチャバンバ県へ転住する日本人も増え、商人や職人として働く人が増えたそうです。
また、ラパスはペルーからの行商人の出入りも多く、1910年ごろからは行商人となった日本人がラパスで店を構えるようになりました。
当時はラパスチリのアリカを結ぶ鉄道工事も行われていたことから、工事労働者として働き、そこで蓄えた資本で商売を始めたり、奥アマゾン地域でゴム景気衰退に伴い、ラパスへ上京してきた日本人がたくさんいました。
日本の商業活動がもっとも活気に満ちていたのは1930年代末でラパスの有名な商店街に30店舗以上軒を重ねていました。店の多くは雑貨店であり、大商店になると日本からの輸入製品を扱い、日本食材や陶磁器、おもちゃ、衣服などが店頭に並びました。
また正月や天長節などの特別な日になると、日本商店から缶詰の餅などを買って、故郷の味を懐かしんだそうです。
1930年代に日本は中国と戦争を起こしますが、これまで軍事物資を中国から輸入していた日本は、中国との国交を断絶しました。
その新たな供給国として、世界第2位の鉱物資源産出国であったボリビアに期待を寄せました。
日本の商社が次々とボリビアに進出し、ラパスの日本人商店の中には、それらの商社の代理店を務め、大きな利益を上げる人が出てくるなど、日系社会が活気づいたそうです。
大戦中、世界はアメリカを中心とする連合国とドイツや日本などの枢軸国とに二分しますが、この年ボリビアは連合国側に与し、日本と国交を断絶しました。
これにより、在留邦人はカメラの使用禁止や、国内を移動するときは警察の許可が必要となるなど様々な制約を受けました。
貿易業に関わっていた日本人は資産が凍結されたために、商売を続けていくために日本人という肩書を捨ててボリビア人に帰化したり、店の名義をボリビア人名義に変更するなどの苦肉の策を取りました。
1944年にラパス在留邦人を中心に29人の日本人がアメリカ軍に捕らえられ、アメリカの捕虜収容所に連れていかれました。
この事件をきっかけに、多くのラパス在留邦人が、より安全な土地を求め、少しでも都市部から離れた農村部へ身を隠すようになりました。
こうした中、ラパス日本人会は生活に困る各地在留邦人の救済活動を行っていましたが、徐々に活動を続けていくことが困難となり、1945年に一時活動を休止。活動が再開されたのは戦後、サンフランシスコ平和条約が締結された後の1952年のことでした。戦時中に抑留された29人は戦後に無事解放されています。
1952年にボリビア革命で大統領に就任したビクトル・パス・エステンソロは、その政策に鉱山の国有化や、産業の拡大、農地改革などを掲げていました。そして、これらを行うのに多くの労働者を必要としたボリビア政府は移民を積極的に誘致していたのです。
南洋諸島で製糖業を行っていた西川利通は、こうしたボリビアの政策に関心を持ち、外務省指導のもとで視察に訪れます。そして、サンファンでの製糖事業を計画し、「ボリビア国サンタクルス日本人移住計画書」を起案しました。
1955年7月、サンファンへ初めて入植した日本人は、この西川利通が率いた14家族88名で「西川移民」と呼ばれています。
その後1956年に「日本・ボリビア移住協定」が締結されると、日本の海外協会連合会を通し全国から公募された計画移住者1684人(302家族、独身者51名)が1992年まで53回にわたってサンファンに入植しました。
1990年代は、ペルーと同様にボリビアから日本への出稼ぎがブームとなった。500$~1000$を毎月ボリビアの家族へ仕送りしたとのことですが、当時のボリビアの1か月の最低賃金が50$以下だったことからも、これがいかに大きな収入だったかが伺えます。
今日のラパス在住日系人は商業分野に留まらず、公務員や医師、弁護士、会社経営など多方面で活躍しています。首都機能を持つラパスだからこその苦労もたくさんあったそうです。
ボリビア革命や180回以上のクーデター、政治動乱やハイパーインフレなど、ボリビア社会のうねりの中で生き抜いてきました。